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学生時代のFW体験

金谷健
環境計画学科
環境社会計画専攻
 私は1975年に東京工業大学に入学し、翌76年に同大学の工学部化学工学科に進学した。県立大学で言えば、材料科学科と機械システム工学科の中間、やや材料寄りといった学科である。化学工学科に進学した2年生の時の学生実験(応用化学実験;週3回午後にあった)は2人1組で行い、その相棒のKから、ある日、「公害問題のサ−クルをつくらないか」と誘われ、誘いにのった。化学工業は公害の元凶だから、公害の勉強をしなくてはいけない、でもそんな授業はこの大学にはないから、自分たちで勉強しよう、といった主旨だったと記憶している。
 当時私は、授業にはまあまあ出席し、サイクリング部に所属してサイクリングしたりコンパ、合コンなど、楽しい学生生活を過ごしてはいたが、「自分のライフワ−クはこれだ」というのが見あたらず、何となく物足りなさを感じていた。そうした状況でのKからの誘いだったが、この時点で「ライフワ−クは公害問題だ!」とピンときたわけでは、もちろんない。元来、人に誘われると断りにくい性格なので、何となく誘いに応じた、というところである。
 こうしてそのサ−クルは、「現代問題研究会(略して、現問研)」という名前で、2年生3年生の6人前後で始まった。活動は週1回、読書会+自由レポ−ト報告という形で当初やっていたが、だんだんとそれだけでは物足りなくなり、誰言うとなく、「川崎市の公害地帯(工場地帯)で住民意識調査をやろう」ということになり、みんなで調査票をつくった。そして担当地区を決めて、歩いて一軒一軒調査票を配った。確か10枚くらいのかなりの分量のある調査票だった。なお単に配布するだけでなく、配布の際に、可能ならばできるだけいろいろな話を聞こうとみんなで打ち合わせしていた。そのため一軒に何時間も費やすこともあった。「今ではかなりましになったけれど、10年くらい前は、日本鋼管(現NKK)の煙で、洗濯物が1日で真っ黒になり、外には干せなかった」などという話を主婦の人から聞いた。こうして川崎の工場地帯を1週間か10日くらい毎日とにかく歩いた。そして、川崎に産業道路という幹線道路があるが、その産業道路が2階建てになっていて(上が高速道路)、そのすみを歩いていろんな家をまわったとき、道路の見事さとそこを通る無数のクルマ、それらとあまりに対照的なみすぼらしい「ウサギ小屋」の数々が、とても印象的だった。それは「日本では人々の生活よりも、産業が優先されている」光景であり、「何かが間違っている」と強く感じた。
 後から振り返ると、そのときの「何かが間違っている」という思いが、私にとっての公害問題(環境問題)の「原点」となった。「原点」という意味は、その後つらいとき、迷ったとき、あのときの光景を思い出すと、自分の進むべき方向が再確認できるという意味である。
 その後の私は、現問研の仲間と公害の現地をあちこち訪ね、現地の人にいろいろと教えていただいた。具体的には、水俣、四日市、足尾+旧谷中村(渡良瀬遊水池)、鹿島、安中、富士へ行った。当時はFWという言葉は使わなかったが、今から考えると、こうしたサ−クル活動そのものが、まさにFW体験であったといえる。そしてこうしたFW体験によって、私は「自分は公害や環境をライフワ−クにしていこう」と考えるようになった。
 私の場合とは異なり、県立大学環境科学部の学生には環境FWという、授業としてのFWが用意されている。こうした大変恵まれた条件を学生諸君は十分活用してほしい。そして、環境FWを発展させて、日本及び世界各地の環境問題の現場へ、学生諸君がどんどん出て行くことを、さらに願う。